同潤会アパートの奥まった場所で代官山食堂はひっそりと営業していた。たしか一軒はさんだ隣りが床屋、トイ面が銭湯だったと思う。天気の良い朝にはたいてい代官山食堂の粗末なテーブルに片ひじついて、ヤカンに用意されたほうじ茶をすすりながら窓の外の風景をぼんやり寝呆けっつらで眺めた。食堂のなかは薄暗く、コンクリートに染みついた古い匂いとひんやりとした湿度が気持ち良かった。食いもんはたいしてうまかなかったが、切り干し大根とか、カレイの煮つけとか、煮すぎたホーレン草のおひたしとか、よくわからん魚のフライとかそんなもんが置いてあって、自分でアルミのトレイにのっけるともり切り飯と味ソ汁が奥から出てきた。味ソ汁のぐはたいていくたくたの煮つまりすぎた大根でうまいと言うより懐しい味だった。おかずを多くとると「そんなに食べられるの?」とラッキョみたいな婆さんに怒られた。
 シゲちゃんとはそんな代官山食堂でよく会った。北海道出身のシゲちゃんはたいてい納豆めしで「納豆、めし、汁、タクワン。他にいらない、納豆のありがたみがなくなるから」と言って格好良く納豆めしをかっこむ。ぼくは西の出身だから納豆を食う習慣がない。
 ある日シゲちゃんは納豆の糸を口からぬぐい上目にぼくを見てこう言った。
「ところで、愛しちゃったのよ、ふふふんふん、愛しちゃったのよ…って昔の歌あるでしょ、あれ誰が作ったんだっけ?」
「詞はハマクラさんだと思うけど、多分」
「あれって素敵だよな」
 シゲちゃんは嬉しそうに何度もうなずいた。
 カルチャー・クラブのカーマ・カメレオン、UB40のレッド・レッド・ワイン、ポリスのエブリ・ブレス・ユー・テイクなんかが流行った年の夏のある日のことで、その日の深夜に西郷山公園の先にある小さなバーでシゲちゃんとまた会った。シゲちゃんには珍しく女の連れがいた。女はシゲちゃんよりもずい分若く全体的にシャープな草食動物みたいでなんかこうひゅっというカンジだった。この女が若いくせによく飲んだ。マティニ、ギムレット、カイピリーニャ、ケロッとしてマールにアクアビット。みんな深夜二時をまわった頃にはすっかりできあがっていて、シゲちゃんはゴキゲンな顔で言った。
「さて、これから泳ぎに行こう」
 ぼくらは深夜のハプニングには慣れっこになっていたから、ごくあたり前にその提案にしたがった。ずるずると旧山手通りを歩きある敷地に壁を乗り越えて忍び込むと、小さな森の向こうに二十メートル級のしっかりしたプールがぼくたちを待っていた。ヤァヤァとみんな素っ裸で真剣に泳いだ。ひとんちのプールで。それからひとしきり泳いだあとでふりちんのシゲちゃんはプールサイドに座って、昼間唄ったハマクラさんの歌詞のように女に素直に好きだと言えたら良いというふうな殊勝なことをマ顔で語った。そしてそのひゅっとした女を愛しているけれど、女房も同じくらい愛していて死にそうだと納豆のような顔をしてつぶやいた。
「もうヤッちゃったの?」
 と意地悪く聞くと、純愛だからやってないというつまらない答えが返ってきた。頭のなかがザラついて、なんだかアルコールの語源はアラビアなんだと何かの本で読んだときに、ヘェ酒を飲まない宗教の国からアルコールという言葉が生まれたのか、といった矛盾を感じたときのような奇妙な気分になった。ひゅっとした女のひゅっとした固い裸が月あかりのなかにあった。
 秋になって代官山食堂で久しぶりにシゲちゃんに会った。シゲちゃんはあの女とは何事もなく別れたと言った。セックスは男と女がつき合うときの大切な要素なのだろうから、それもしないで別れるもクソもないだろうとぼくは思ったものだが、あれから二十年近く経ってウォン・カーウェイの「花様年過」という映画を観たときにシゲちゃんの純愛をすこしばかり理解できた。しかしそんな愛のカタチは映画だから、まして主人公がトニー・レオンだから美しいのであって、普通の世界だったら男の身勝手な恋の妄想と思われるにちがいない。が、それでもシゲちゃんの純愛を支持していたかった。
 やがて代官山の風景は大きく変わる。同潤会アパートは壊され、馬鹿な男や女の居場所と夢がひとつずつ消えてゆく。シゲちゃんは北海道へ永住し、ぼくは代官山から離れた。マイク・オールドフィールドのムーンライト・シャドウなんかもあの年よく聴いた。近頃あの日のシゲちゃんの純愛を酒場でときどき話題にする。たいていの女はこう言う。
「あんた私だったら一度くらいはヤッて別れるわよ」
 女はアッパレだ。

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