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| 70年代から旅行会社を経営し、バックパッカーの手本となるような 旅を企画していた中野雅蔵さんが、房総で農業を始めたのは90年代初頭。 42歳になっていた中野さんが、なぜ都会を離れ田舎暮らしを始めたのか、 そして米作りのどんなところに魅力を感じたのか。 自然環境と日本文化を守る鍵がその生活から聞こえてくる。 |
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日本の原風景としての里山。 日本の原風景を思い浮かべるとき、人はどんな景色を自分の頭のなかに描くのでしょう。生まれ育った故郷であったり旅先で偶然出会った光景だったり。田んぼと雑木林からなる取りたてて特長のない里山こそ、もしかしたら最も日本らしい原風景のひとつに挙げられるかもしれません。 三方を山に囲まれた入り江のような田んぼのことを谷津田といいます。高さが数十メートルしかないような小さな山でも、そこに雑木林があれば、落ち葉が腐葉土となって様々な養分が堆積されます。養分は時間をかけて湧き水となって流れ出し、その水は谷津田に溜まります。 谷(ヤツ)とはアイヌ語に起因する言葉で、低湿地を意味しています。そこは、多くの小さな生き物たちの快適な住処となるのです。森の恵みを受けた栄養豊富な田んぼ、それが本来の谷津田なのです。 四二歳での転機。 中野雅蔵さんが、千葉県長柄町に移り住んだのは一〇年前のこと。家の目の前にある谷津田に引き込まれるように、ごく自然と米作りを始めたそうです。米作りをするようになったとき、中野さんは四二歳でした。 「ここの谷津は東が開いています。なんで谷津がいいかっていうと、この中は独立しているから、生き物にとって最高なんです。道路などで三方のうちひとつでも抜けてしまうと、やっぱりダメなんですよね。侵入して通り過ぎることができる。外の世界とどんどん行き来ができちゃう。谷津は籠もっているわけですよ。籠もっているから、隠れ潜むものにとっては最高の場所なんです。人間が住んでいても最高ですよ。道のどんつきに家があるから用のない人はここまで来られない。我が家の先は雑木林があるだけですからね」 現在五二歳の中野さんの経歴は、農業とはまるっきりかけ離れたものです。一九七〇年代初頭、まだ学生の頃に行ったインドへの旅をきっかけに旅行代理店を設立。インドやネパール、バリへのツアーなど、それまでどの旅行会社も目を付けなかった場所を次々に開拓していきました。インドへのツアーを『精神世界の旅』と名付け、そのポスターの絵は横尾忠則さんが手掛けていたほどです。独創的な旅を提供した中野さんは、旅の経験を活かしたガイドブックやパンフレットも編纂。インドやバリのガイドは、なるべく費用をかけない旅をしようとするバックパッカーにとってのバイブルとなったのです。後に発行され、今では旅の本のベストセラーとなっている『地球の歩き方』のひな形になったといいます。 しだいに視線の先は、アジアからカリブの小さな島国へと向くようになっていった中野さん。ジャマイカで開催されているレゲエのビッグ・フェスティバルのレゲエ・サンスプラッシュへのツアーを実施。これがきっかけでついには日本でも、サンスプラッシュをプロデュースするようになったほどです。 いのちの祭りへの参加。 一九八八年に八ヶ岳南麓で開催された『いのちの祭り』に、中野さんは実行委員として参加しました。 『いのちの祭り』とは、「NO NUKES ONE LOVE」のキーワードのもとに、原発のいらない人と人の関係を模索し、人と社会の在り方を実践することを目的としたお祭り。八月一日から九日までの期間中、六千人以上の参加者は、ほとんどがキャンプインで過ごしました。エコロジーへの関心が今ほど一般的なレベルにまで広まっていない時代に行われた『いのちの祭り』は、オルタナティブな活動が大切であるという気づきを多くの人に教えてくれた、日本のエポックな野外イベントと言われています。 「88年8月8日八ヶ岳8時8分という8へのこだわり、ハチハチは非常に意味のあるお祭りでした。日本中のオルタナティブな生き方を実践している人たちが一つのテーマで集い、語った、稀にみる共同体験だったと思います。祭りのプロセス自体が自分達の意識を変えていくニューゲームでした。シンポジュームもコンサートもクオリティーの高いものばかりで、出会うべきヒトと全て出会えました。あんなすごい催しは神のはからいとしか言いようがないです」 計画の段階から祭りの開催まで六カ月も、『いのちの祭り』のためだけに時間を費やした中野さん。祭りで燃えつき、終わった後はしばしもぬけの殻のように放心状態で、数ヶ月は満足に仕事ができなかったそうです。スタッフとして関わった多くの人が、『いのちの祭り』を体験したことによって人生観やライフスタイルが変わった、という話も耳にします。 中野さんにとって、『いのちの祭り』が米への関心が向くようになった何かのきっかけのひとつになったのはず。コンクリートで固められた都会から、土が生きている田舎へのシフトチェンジが、八八年の夏にあったのです。 都会から田舎の引っ越し。 旅と音楽を愛し、仕事としていた中野さんが、なぜ人生観が一八〇度も変わってしまったかのような農業を勤しむようになったのか。四〇歳を過ぎてからの転換には、それ相当の決意があったはずです。 「農業に興味があったわけではありません。バリ島のライステラスの風景が心にしみついたんですね。知らないうちに水田とバンブーの景色を探し求めていました。日本の各地を旅しました。伊豆の島々。屋久島、種子島まで行きましたが、頭の隅にもなかった東京のおとなり千葉に定住することになりました。住んでみると東京に近いということはいいじゃん!と思うようになった。夜中に家を出て東京に向かっていくと、幕張のビルが摩天楼のように見えてくる。ちょうどニューヨークに入っていくような感じですね。真っ暗な場所から、わずか一時間で大都会へ出て行ける。農的暮らしをスタートさせるには、谷津田は条件ばっちし」 関東平野のような広がりのある田園地帯とは違う房総には、谷津田が何千ヶ所も未だに残されています。土地が入りくんでいるだけ、作業効率は低下します。ですから、谷津では休耕田が増えていっているのです。 谷津田という抜け道のない閉鎖された田んぼでの作業が、中野さんを米作りへとより強く誘ったのは間違いありません。谷津だったからこそ、周りの農家を気にすることなく完全無農薬が可能となったのです。 「百姓仕事ががどんなものなのかは全然分からなかったけれど、米作りをやっていると有りがたいなと思うことがあるのね。やっぱり穀物を作るというのは、畑で野菜を作るのとはちょっと違いますよ。穀物は、ひとつのものを大量に作付けしますからね。作ることへの根性ができるんです。穀物はライフと一体化しているんですよ、どっかで。日本の農村地域は、お米を作っていることによって成り立っていたんですよ。一年という四季のサイクルも感じられる。冬が終わって土地が芽吹いてくるときに、種籾を冷やして水に浸けなきゃいけない。そういった米を作るという大きな流れが、なかなかよく出来ているんですね。忘れていてても、米は日本人のDNAの中に入っているんですよ」 ワークショップで仲間を増やす。 長柄に移り住んだ翌年から、中野さんは仲間を誘って米作りのワークショップを開始しました。ワークショップとは、いわば実際に何度かの田んぼ作業を通じて、米作りを学んでいく講習会みたいなもの。中野さんが米作りを始めたことがきっかけで、「一緒に田んぼを楽しませてくれ」という友人が何人か現れたことによって、谷津田でのワークショップは始まったといいます。けれどまだ一年の経験しかなかった中野さんにとっても、自分でも学んでいきながらの仲間との共同作業だったに違いありません。 「野良仕事でもないと、田んぼに長時間いることなんかないでしょう。単純作業を延々やる。それがいいんです。やってるうちに瞑想的な時間がおとずれる。風が吹いて、落ち葉がそよいで、鳥の声やらいろいろな自然界の音も聞こえる。ふと見上げれば虹も拝める。静かな谷津田に一人で立つからこそ自然の一部に自分もなれる。これって最高!と思ったからすぐ友達にもどんどんすすめる。もともと旅行のお仕事で勧誘お手のもんですからね。山登りでも、サーフィンでも最初の一歩を踏み出すまでがナカナカ時間がかかるんですね。きっかけさえあれば、けっこうはまりますよ。しかし、脱穀、籾摺りなど米粒にするまではけっこう手間ががかります。そんなにイージーな世界では決してありません。だからワークショップというかたちで、機械も場所もシェアしながらやれば、いいとこだけ楽しめるでしょう。日本のグリーンツーリズムの雛形が田んぼワークにあると言い切っちゃいます」 春の田植え、初夏から夏にかけての草取りは三回程度、そして秋の稲刈り。現在でもワークショップは続けられ、のべ五〇〇人以上の人が長柄町の谷津田で米作りを体験しました。年に五回ほどの作業でも、日本人にとっての米の大切さを自分の身体で知ることができる。米を作るという日本人の心の基本を、少しでも身体に刻むことができます。中野さんの仰る通り、レクレーションとして楽しみながら、日本人としてのDNAを覚醒させることは、その人にとっても大きな一歩になるはずです。 谷津田の保全。 東京から近い房総の長柄町でも、過疎化は進んでいるといいます。米作りを営む農家の主力は六〇代や七〇代の高齢の方ばかりで、後継者もなかなか育っていないのが実状です。田んぼや里山が日本の原風景であり、田植えや稲刈りが季節の風物詩として心に刻まれています。米作りは日本の食文化を担ってきたと言っても過言ではないはずです。 「最高の文化資産である谷津田を、除草剤も使わず、農薬を垂れ流ししない、昔ながらの循環型農法で利用し続けるということ、それだけでもう一級の環境ボランティア活動になります。ただ、たんぼをやるだけでハイレベルな活動なのです。ごみを集めるのとはまた違うレベルだと思います」 古くからごく当たり前に行われてきた循環型の農作業は、もっとも地球に優しいのは言うまでもないことです。多様な生き物が、同じ場所で生きる。人間も虫も、鳥も蛇もカエルも、それぞれの役割を持って共生する。日本ならではの自然と人間が共に心地よく寄り添っていられる環境が、谷津田なのかもしれません。 「毎日の作業はしんどいし大変なんだけど、もう一〇年も続けていると当たり前になっちゃいましたね。けっこうまっとうな人間になったと思いますよ。かつてはやくざな人間だったけれどね。田んぼで作業していると、なんか元気になりますね。米作りを続けていると、そこそこまっとうな人生になるんとちゃうかなと思いますね。ぼくもあのままだったらジャンクしていたんじゃないかなと思うもの。ぼくが会社をやめて、こういった暮らしに向かった最大の理由は、伴侶である郁子の存在です。結婚して家族ができたことから、すべてが変わり新しい旅がはじまりました。何から何まで、郁子の影響といっても言い過ぎではないかも……」 田んぼを中心にした生活サイクルの実践。そして里山までを含んだ自然への愛情。そこでの家族との暮らし。それが中野さんにとっては、新しい旅なのかもしれません。 |