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友人の星読みの先生(星占いと言うと彼は怒る)の話しでは、人は二七歳と数ケ月で一度生れ変わるらしい。星読みと星占いがどう違うのかさっぱり分からないし、そういうことに興味もないけれど、誰でも社会に出て二七歳あたりで大きな変化に出くわすということなんだろうとまっとうに解釈した。自分のことを考えても二七歳まで喰えない奴だった。ようするにナメていたわけで、こつこつということができない。麻雀で言えば、ふり込まないで状況に応じて小手であがる。そして、じっと勝負どころを待つ。そうしていれば後半必ず勝負手がやってくるンだけれど、あせっていつも大事なところで転んでしまう。いきなりの大物手はたいてい先細りしてしまうことが分かっていてもムダに走ってしまう。 二六歳のときムダに走ったツケがいっ気にまわってきた。どうあがいても悪い方に転んだ。たとえばこういうことだ。数ケ月家賃をためて夜逃げをした。引越しの最中に車の荷台に積まれた自分の洋服ダンスがラブホテルの看板にあたり、看板は大破した。ホテルから恐い人が出て来て、夜逃げの最中だから警察を呼ぶわけにもいかないし、結局溜まった家賃の倍の修理代を払うはめになった。ダブル箱のところにヤケクソのオープンリーチをかけたら、親のチートイドラ単騎待ちの馬鹿追っかけリーチに、一発でドラをふりこむようなもので、あげくに待ち牌は親がトイツで使っていて無いのだ。 ドツボだった。 結局二七歳の春に窒息寸前で山口の実家に逃げ帰った。 「おまえのような馬鹿はほいとにでもなって野垂れ死んでしまえ。ここには帰るところはないんよ、東京へはよ去ね」 それまで一度も怒ったことのないおふくろに泣かれた。(ほいとは乞食のことですね) 長男はしゃらんとビールを飲みながらこう言った。 「まァ、タケシは自殺するし、園子も由起子も気狂いじゃ。うちは白痴かゼンソクの家系じゃから。おマエもその血をひいとるんじゃろ」 タケシおじさんは材木問屋を営んでいたがある日工場で首を吊って死んだ。ぼくが東京に来てからのことでその理由は誰も話さない。園子はひとつ下のいとこで大人になっても体も会話も子供のまんまだ。愛媛県の松山のおじさん方の由起子姉さんはいわゆる白痴美人で、女子校を卒業前にヤクザものと駆け落ちした。ふんだりけったりだけれど、園子と由起子姉さんのことはぼくは今でも愛していて、ぼくにとっては天使のままだ。それはともかく、実家に助けてもらうどころか、さらにボコボコにされ東京に舞いもどった。そして、相変らずカスミ町あたりの酒場で途方に暮れていた。 その年…… 一九八一年五月一一日 深夜。 クーリーズ・クリークで友人の楠くんを待っていた。バーにはぼくがひとり、テーブル席に客が数人。曲はヴァン・ゲリス、カクテルはハバナ・ショット、キューバのラム酒とライムと尖った氷り。バーテンは無愛想だが腕は良かった。しばらくして楠くんがやって来た。マティニを注文した。楠くんはぼくと同じ年で、大阪船場の呉服屋のやっぱり阿呆ボンチ。楠くんはマティニをひとくち飲んで「ふう」とため息をついて「あんた大変やで、ボブ・マーリーが死なはった!」と言った。そのときぼくが何を答えたか記憶にない。しかし、アンタ大変ヤデェという楠くんの暑くるしい大阪弁だけが今でもはっきりと耳の底に残っている。ボブ・マーリーの悲報はすぐに広まったらしくその酒場はじきにフリークでいっぱいになった。ボブ・マーリーの歌とハバナ・ショットとどこからかまわってくるジョイントにヨレながら、楠くんと二人バーのスツールに座り店内でゆれるラスタ帽を朝まで眺めていた。レゲエが神様の贈り物だった時代フリークはみんなこの帽子を被っていた。ラスタ帽を被っていない楠くんとぼくはただその風景を眺めていただけだ。世界のいろんなとこに一九八一年五月一一日をそのように過ごした二七歳は大勢いただろう。 |
| それから「ボブ・マーリーが死なはった」というセリフの続きはその三年後に河内家菊水丸さんの「ボブ・マーリー物語」でよみがえる。レゲエの神様は日本にもオモロイ贈り物をしてくれた。実はその歌詩をどうしても紹介したかったので、自分自身の当時のヨレ話しを最初にしてしまった。さて今号では菊水丸さんではなくて、後藤ゆうぞう「須磨の風」ライブ版を全編紙上初公開します。 後藤ゆうぞう「須磨の風」ライブ版 レゲエ一代男 ボブ・マーリー物語 (ボブ・マーリーヒットメドレーに乗せて) ヤァーマン!! 瀬戸の海なら淡路島 南の海なら与論島 島はあれこれあるけれど 遥かカリブはジャマイカのレゲエ一代男と恐れられた快男児 ボブ・マーリーの生涯を 慣れぬバンドのスタイルで 時間来るまで務めましょう エー時は昭和の二〇年 遥かカリブはジャマイカ島で イギリス大尉を父に持ち 現地の娘を母に持ち オギャーと生まれた元気な子 ホイサ ボブ・マーリーと名付けられ 小学校に通ったけれど やがて不良の仲間入り 働かないでガッポリと 稼いでみせるぜ腕一本で 組んだバンドが後の世の その名も高きウェイラーズ 「どんどんどん!どんどんどん!こんばんわ!こんばんわ!」 「誰や誰や、こんな夜中に」 「兄き、俺やがな、兄き」 「おっ、誰かと思ったら、われピーター・トッシュくんやないけ、どないしたんや、こんな夜中に」 「エー兄き、まいど!!」 「おっ、なんやバーニー・ウェイラーくんもいっしょかい。はよあがらんかいわれ、ビールでも飲んでいかんか? おーいオマエ、ビールやビール、婆ァはよ出さんかい」 「アンタ、何ゆうてまんのん、うちかていろいろいそがしいんやで」 「そんな怒るない、リタ・マーリー、ところでバーニー、ピーター、どないしたんやこんな夜中に」 「(小声で)兄き、他でもないイイ○○が入ったんです」 「おお、そうかピーターいつもすまねぇなァ プーハァー・・・プーハァー・・・」 「兄き自分ばっかり吸わんとバーニーにもまわしてください」 俺も吸うからお前もどうだ ○○吸うてりゃ気分がいいが 世界にゃ飢えや、貧困や、戦争や、差別があふれかえっとるやないかィ 飢えた赤ん坊抱きしめて 涙にくれる母もいる 一体世間は何してるんだァ 男一匹ボブ・マーリーの 熱い血潮が燃えたぎる (おはやし)ソーラーヨーイ、 ドッコイサ サーノーヨイヤ、サッサ いつか世間に出てやると 思ったちょうどその時に 同じジャマイカ出身の アイランドレコードの大社長 金持ちクリス・ブラックウエルと出逢って二人はロンドンのロックの世界に殴り込む ロンドン、ニューヨーク、 東京と 売ったレコードその数知れず たちまち世界の人気者 その頃本人ボブ・マーリーは 生まれ故郷のジャマイカの 選挙の応援コンサート あれは師走の寒い頃 ステージ前の練習を 自宅にこもってしていたら いきなり飛び込む男が四人 マシンガンとピストルで マーリーめがけてブッぱなす 弾丸は左の腕突き抜けて もう一発は心臓へ (バックメロディはノーウーマン・ノークライに) 「あァー撃たれてしもたァ……」 「あんたァ、あんた死なんといて」 「うぅ……誰かと思ったら、われ妻のリタ・マーリーやないかい」 「あんた、こんなとき、女房をフルネームで呼ばんとき、あんたが死んだらレゲエはどうなるの? 死なんといてあんた」 「じゃかましい!! 俺は死なへんのやリタ! 世界に飢えや貧困や、戦争や差別があるかぎり、俺はこんなところで死ねるかいー」 (イョ!!拍手喝采) 運良く命はとりとめて ボブ・マーリーはよみがえる ロンドン、東京、ニューヨーク 歌い続ける道中で スーパースターになるという ボブ・マーリー物語……… まだもこの先、やりたいけれど この先は次ぎのライブで歌いましょ お聴き苦しいこのなかも ようこそ御静粛くださいました それではみなさんさようなら その先は次のライブでといつも言うけれど、ぼくはゆうぞうのライブでその先を聴いたことがないなァ……。楠くんもぼくも二七歳で死に、二七歳で生れ変わったんだろう。それは一九八一年五月一一日という一日が大きく作用していると言っても過言ではない。三六歳で亡くなったボブ・マーリーよりもぼくはすでにずい分歳を喰った。白痴とゼンソクの血をひくぼくは四〇を過ぎてゼンソクになってしまったが、酔っぱらって時々トイレと押し入れをまちがえてカミさんにおこられるものの、まだ気狂いのケは出てない。 パレスチナにピースを! イランに医薬品を! 北朝鮮に食料を! セックスにコンドームを! ※後藤ゆうぞうさん貴重な資料を送ってくれてありがとう。後藤ゆうぞうさんは例年日比谷野音でのブルース・カーニバルの司会も務めておりますのでみなさん観に行ってあげてください。 |
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