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■私的音楽史 文/絵 ・ 遠藤聡明
異形であった東京クラブミュージックシーンの中のどんとと江戸アケミ
今年1月後半立て続けに、故どんと(exボ・ガンボス:2000年1月27日没)と故江戸アケミ(じゃがたら:1990年1月27日没)の10年の年月を隔、同日同年齢(37歳)でこの世を去った稀代のヴォーカリスト2人をトリビュートするイベントが行われた。
どんとの実家が精米店で、江戸アケミの口癖が「百姓の勘」そんな2人を音楽史的視点で「米を巡る日本の文化」を標榜する「88」に記すとは因縁も感じるし、光栄にも思う。
ちょっと雑だが、突き詰めれば日本のロック史はこんな事が始まりだと思う。ロックンロールの内田裕也VSロックの細野晴臣。体育会系VS文化系という例えでもよいのだが。
その後の2人の音楽活動を俯瞰で眺めて観ればシンプルなマップが立ち現れる。ロックという様式美に埋没していった内田一家。異種配合を繰り返しロックの本来持つ、何でも吸収してしまう巨大なスポンジと化していった細野ファミリー。その後の音楽史のメインストリームは細野派の地図から受け継がれて行った。
パンクの喧噪の後、ジョン・ライドンの宣言した「ロックエンド」なるワードにリアリティーを感じていた80年代初頭。少し長くなるが当時の東京クラブシーンの状況を記してみたい。何故なら、この混沌とした時期に、現在、当たり前にある幾多の音楽様式が形成されて行った気がしてならないからだ。
当時の私は絵の学校に行きながら、毎夜、カビ臭く、十分すぎる湿り気に満ち、スケルトン状の、まだ異形であったクラブなるものに、今、思えばダビーなベースラインを求めて毎晩彷徨っていた。やっと「コンサート」が死語となり「ギグ」なる言葉が一般に浸透してきた頃だ。
「クラブミュージック」なるカテゴリーは当然無く(だいいち、商売になる感じなんて皆目無かった)ロックでなければなんでも良かった。
パンク、テクノ、ニューウェーブ以降、それぞれの想いはバラバラであれど、東京発のダンスミュージックを構築する動きが強烈に感じられた時期でもある。
メロン〜メジャーフォースへと流れ、今や完全に商品として成立しているジャパニーズラップとR&B。ランキン・タクシーが切り開いたジャパニーズ・ラガマフィン。ミュートビートが構築しオーディオアクティブ等へと流れ込むジャパニーズ・ダブ。ハウスをクラブミュージックに定着させたSODOM等、私自身が購入するアナログ洋盤と重なるサウンドプロダクトを周到しながら、新しい東京のダンスミュージックを構築するべく活動する幾つものグループが点在し始めていた。私は彼らを観ながら、彼らの後ろにある洋楽のオリジナルイノベーター達を観ているという矛盾したオーディエンスだった。
この動きにバンドという様式で大胆にも挑んだのが、パンクバンドを原点として活動を始じめた2組、ボ・ガンボスとじゃがたらではなかっただろうか?
当初、ボ・ガンボスの背後にアメリカンルーツミュージック全般からミーターズ〜ネビルス、ボ・ディドレー、バットゥイー・ザディコ、トゥーツ&ザ・メイタルズ、P・ファンク等を観、じゃがたらにワールドミュージック全般からフェラ・クティ、サリフ・ケイタ、キング・サニー・アデ、ボブ・マーレイ、アートアンサンブルオブシカゴ、サン・ラ&アーケストラ等を観ていた。しかし、この2組及び2人のヴォーカリストには、前記の後のクラブ系と呼ばれるアーチスト達に無い、日本人である我々を巻き込む「メッセージ」という武器と、強烈なフロントアクトとしての「オーラ」が備わっていた。どんとには天国(愛・夢)を観せつけられ、江戸アケミには地獄(現実)を観せつけられた。当人同士は、どんな意識でそれぞれを感知していたのか、到底、私ごときには皆目想像つかないが、私にとって2人はコインの表と裏であり、陰陽であった。
2人の没後、残念ながらクラブミュージックシーンの中で、彼らの仕事が見落とされたまま時間は経過し、どちらかと言うとバンド指向の若者達に大きな足跡を残しているのが現状だ。
敢えて言わしてもらうなら、そんな東の果てのスモールサークルに収まりきれずに、もっと大きな意味で2人は、ニューヨークテロ以降の日本人にとっての最重要アーチストになったと言い切ってしまおう。
螺旋状に絡まった暖色と寒色の糸。今後の日本人に紡がれて行く2本の糸がある。どんとはその楽曲の素晴らしさという糸。
江戸アケミは予言者としての「現在」を伝える言葉という糸。
冒頭、米にまつわる2人の因果を強調したが、勘で生きてきた2人にとってのキーワードが米。深読みすると土であり、地球の鼓動であり…。
長い旅の果て、幾つかの鍵を集め「あこがれの地へ」辿り着く頃には、ひとつの「つながった世界」が我々の目の前に否が応でも立ち現れるのだろう。 |
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