八郎潟という名前を聞いたことがあるだろうか。
秋田駅から奥羽本線に乗り換え、八郎潟駅で下車する。しばらく車で走ると、どこまでもどこまでも続く田んぼが、水平線の果てまで広がりはじめる。視界をさえぎるものは何もない。
大潟村。ここは、50年ほど前まで、日本第二の広さを誇る湖だった。当時の平均水深は3m。毎年のように潟から溢れ出る洪水が、周辺農民を苦しめてきた。水田開発と食糧増産、水害の解決策として、干拓計画は江戸時代後期からあった。
干拓事業が本格化するのは、第二次世界大戦後の食糧難からだ。実に15,000ha以上の土地が作られた。昭和41年、1966年には、中央干拓地の全面干陸が完了し、全国から入植者が集まる。ところが、食糧難の解決策として始まったはずの干拓事業、皮肉なことに、米消費は、入植が開始される数年前、昭和37年をピークとして減少を続けることになり、現在では、生産調整、減反までされるようになった。


二代目が帰り始めている。
「親父たちが、いま50歳後半から60歳代。だんだん、オレたちぐらいの年代の二代目が帰ってきていますね。ここには、魅力がある。農業経営が行き詰まっているとは思えません。かといって、長い目で見ると、このままの状況が続くとも思えない」大潟村の生産者、信太惇吉さんは語る。
「子供の頃から、農業やれって言われてましたからね」信太さんと協力し合うメンバー、佐藤貴則さん。富田正彦さんも、学校を卒業、県の農業試験場を経験後、大潟村に帰ってきたという。
周囲には広大な土地に農地しかない。農業を選択してこの土地に住むか、決別して離れるか。この環境が若い人たちにも二者択一の選択を強い、結果、後継者を育んでいるとも言えるのだろう。

数々の矛盾の中から。
大潟村は、その当初から矛盾を抱えていた。
「親父が入植したのが昭和49年。減反が始まったのが53年です。米を作りたいと思って来たのに、数年で作るなと言われたわけですから、たまらないですよね」と信太さん。この地域では、早い時期から矛盾が表面化。ゆえに、流通の自由化を模索する動きも早かった。信太さんたちのグループも、独自の流通を開拓している。自分で作ったものを責任を持って販売していく。シンプルでストレートなのだが、食管法を経た現在、他の地域では、問題はそう簡単ではない。
「これからは厳しい時代になるでしょう。味、質、どこが他の米と違うかアピールしていかないといけない。米作りで、自分たちをいかに表現するか、それが問題です。やりがいがあると思いますね。将来は、野菜、果物、その家庭で食べられているものすべてをプロデュースできたら、素晴らしいでしょうね」信太さんは、自信に満ちた笑顔で語る。
土を育み、気候を読み、稲を育てる。農業を通して、彼らは、自分を表現しているのだという。農産物は、彼らの作品だ。そして、この姿勢は、まさにアーティスト、そのままなのだ。