八郎潟という名前を聞いたことがあるだろうか。
秋田駅から奥羽本線に乗り換え、八郎潟駅で下車する。しばらく車で走ると、どこまでもどこまでも続く田んぼが、水平線の果てまで広がりはじめる。視界をさえぎるものは何もない。
大潟村。ここは、50年ほど前まで、日本第二の広さを誇る湖だった。当時の平均水深は3m。毎年のように潟から溢れ出る洪水が、周辺農民を苦しめてきた。水田開発と食糧増産、水害の解決策として、干拓計画は江戸時代後期からあった。
干拓事業が本格化するのは、第二次世界大戦後の食糧難からだ。実に15,000ha以上の土地が作られた。昭和41年、1966年には、中央干拓地の全面干陸が完了し、全国から入植者が集まる。ところが、食糧難の解決策として始まったはずの干拓事業、皮肉なことに、米消費は、入植が開始される数年前、昭和37年をピークとして減少を続けることになり、現在では、生産調整、減反までされるようになった。 |
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