ガジュマルの庭。

 庭には、何本もの大きなガジュマルがあった。その中の一本の木の横に張り出した枝からは多数の気根が垂れ下がり、地面まで伸びた気根は支柱根となっている。支柱根は太い幹となって、最初に地面から空へと立ち上がっていった幹と区別がつかないほどだ。生い茂ったガジュマルの葉が、南の島の強い太陽の光を遮断している。風がそよぎ、鳥がさえずるその庭は、石垣昭子さんと金星さんの紅露(くうる)工房の庭だ。
 石垣昭子さんは、西表の隣の竹富島の出身。このサンゴ礁が盛り上がって出来た小さな島には山がない。海から竹富を見ると、青とも碧とも言えぬ海の上に、陸地が平べったく浮かんでいるようだ。
「竹富には山がないですし、川もなく、石しかありません。そのかわり、伝統的な手仕事とか、知恵とかが残っています。伝わっていることはいっぱい残っていて、それを今も伝えています。小さいなりにね。結局資源が乏しいだけに、知恵を出さないと生きていけないという島ですよね。織りの技術もずっと伝承されてきたんです」と昭子さん。
 沖縄民謡でよく歌われる「安里屋ユンタ」も、竹富で生まれ歌い継がれてきたものだ。
 昭子さんは、東京の女子美術大学を卒業後、染織作家として人間国宝となった志村ふくみさんに師事。その後八重山に帰ってきた。戻ってきた当初は竹富で暮らしていたものの、金星さんと出会い、西表に工房を開いた。1980年のことだ。
「竹富に限らず、他の場所から見ても西表にある素材は魅力ですね。沖縄の他の島と比べても植生が違うじゃないですか。木一本を見ても、全然違う。森の形も違う。染織の世界、特に天然繊維や自然染料を深めている人には、ここは最後の宝庫でしょうね。世界を考えても、なかなか残っていないと思います。沖縄の場合は染織が多いですよ。染色とは違います。染織という言葉からも分かるように、染めと織りは本来は一体なんです。染織を続けていると、素材にどんどん深まっていくんですよね」


島の素材、島の色。

 島にしかない素材で、島に残された伝統を受け継いでいく。自然からいただいた繊維を糸に変え、木々からいただいた色を糸や布へと染めていく。
「天然素材に、こだわらざるをえなかったというほうが正しいかもしれません。こういうところに住んでいると、自然のものしかないというか…。布の世界というのは女の仕事で、家庭のなかでやって一生できる仕事です。島では、機を織るというのは当たり前のことでした。私も祖母が織るのを子供の頃から見ていました。地元で取れた糸ということを地糸って呼ぶんですけど、地糸で機を織っていました。地糸の素材になるのが、沖縄では糸芭蕉であり苧麻なんですよ」
 工房の近辺には、糸芭蕉の畑がある。糸芭蕉は琉球王国時代に東南アジアから持ち込まれた。しかし現在、糸芭蕉の繊維から服へと布地を作っているのは沖縄だけ。糸にする技術は沖縄独特のもので、東南アジアで作られた布は固くて衣服にはならないという。
 糸芭蕉を栽培し、糸にし、布に織り、そして福木やマングローブなどの島の植物で染める。最後には、海と川が交わる汽水域で、海晒しをして布に色を定着させる。ひとつひとつの作業は、本当に手のかかるものだ。それをすべて一ヶ所でやっているのは、きっと世界で昭子さんと金星さんの紅露工房しかない。
「私は、着るっていうのは皮膚の延長と考えていますから。植物染料というのは、もともと薬効のあるものですよね。万葉の時代からずっと受け継がれています。そういう意味では、天然繊維で天然染料が皮膚に一番近い布ということです。島では、それがずっと続いているわけです。ただ、今の時代にそれをやることは非常に難しいことでもあるんですよね。西表では、季節や気候に合わせてやれば、かなり純度の高い色素を出せます。朝起きると、今日何をすればいいのか分かるんです。山や海、太陽や風が、その日の仕事を決めてくれるんですよ」
 自然とともにある時間、地球が教えてくれる仕事。かつて人間の暮らしは、それが当たり前だったはずだ。しかし多くの人が、時間に追われ、仕事に追われることによって、地球が教えてくれていることを、聞き逃し見逃している。
「そもそも、誰々のために織るっていう理由が必ずあったのが布なんです。何のためにとか、誰のためにとか、必ず目的を持って作るわけですから、そんなに多くはいらないんですよ。女の仕事として、布を織ることは料理を作ることと同じです。必要な分だけ取る、必要な分だけもらう、必要な分だけ作る。すべてを取ってしまったのでは何も残らない。使う分だけ恵んでもらう。それをずっと同じようなサイクルで続けているだけです。それが、私たちにとって当たり前の暮らし方なんですよ」
 昭子さんは「当たり前」と何度も繰り返した。当たり前のことを続けるには、今は難しい時代かもしれない。けれど、西表という辺境だからこそ実り多き島に、当たり前のことを続けている人たちがいる。当たり前のことこそ、次世代へ伝えていかなければならない財産なのだ。