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日本であって日本ではない島。
沖縄県八重山諸島西表島。人口およそ2000人。亜熱帯降雨林気候域に属し、島の90パーセント以上は緑豊かな原生林のジャングルだ。森を構成する木々や咲きほこる花々は、ヤマト(本州)とは明らかに違う。川の流域にはマングローブの林が広がっている。
よくこの島を紹介されるときに、『日本の西の端っこ』という表現がなされる。日本の地図を見れば、たしかに西の端っこ。だけど地球儀を見れば、東南アジアからもっとも近いところに位置していることが分かる。東京から2100キロも離れているのだけど、台湾からの距離はわずか200キロしかない。沖縄本島よりも中国大陸のほうが近い。地球という視点から考えれば、八重山は大陸との接点であって、東京こそが『東の端っこ』だ。
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南の島での米作り。
石垣金星さんが中心となって『ヤマネコ印西表安心米』が産直で販売されるようになったのは1989年から。当時、まだ米は自由化されていなかった。発足したばかりの特別栽培米制度の認可を受けてのスタート。安心米は沖縄で第1号の特別栽培米で、日本全国でも2番目か3番目だったという。
「80年代に入って、日本のお米の等級制が沖縄にまで適用されるようになった。それと同時に農薬をまきなさいという上からの指導が出るようになったんです。農薬を使うか、それとも自分たちで特別栽培米を作るのか。ふたつにひとつの選択を迫られたんですよ。で、僕らは農薬を一切使わない、昔から西表で続けている伝統的な米作りをしようと。それで安心米を作って、産直を始めたんです」
無農薬の手段として選ばれた合鴨農法だった。合鴨は除草を担ってくれる。そしてもうひとつ、西表ならではの役目が合鴨にはあるという。
「前には台湾で合鴨を使っていたというのを聞いて、台湾に勉強に行ったんですよ。台湾はすでに日本を追い越して近代化していた。それでいろんなところでやっている無農薬の農法を調べたら、九州でも合鴨を使っているところがあってね。田んぼに合鴨を入れたら、非常によくガンバってくれて‥。100羽田んぼに入れたら、半分はヤマネコのごちそう。最後に残るのは2〜3割が僕らが食べる鴨料理になります。ヤマネコはそんなに山の奧にはいないんですよ。田んぼとマングローブ林が、ヤマネコの餌場なんです。潮がひいたら、蟹を食べたり魚を食べたりする。昔からの言葉で、田んぼを作ることは自分たちがヤマネコを養っているというのがあります。田んぼを作ることによって、お米を食べにネズミが来る、ネズミを食べにハブが来る、ハブを食べにヤマネコが来る。ひとつの食物連鎖。つまり田んぼを作ることがヤマネコを養うことになる。西表の米のブランド名が『ヤマネコ印西表安心米』。それで毎年、ヤマネコがパテント使用料を請求しに来るんですよ。お金はいらないというんで、現物支給で渡しているんです。ごちそうを食べたいだけ食べなさいと」
実はこの取材をきっかけに、西表で本格的に稲作をやっていることを知った。島には、海岸線に沿って道が通っている。しかしこの道も、ほぼ半周分しかない。平地が少ない西表では、外周道からは水田がなかなか見えてこない。車でスピードを上げて走っていたらなおさらで、そんなときに目に飛び込んでくるのは、海、空、そして木々の緑だ。
「1477年に漂着した朝鮮人の八重山に関する記録が残っているのですが、すでにここではお米を作っていたといいます。それが西表の米に関する一番古い記録です。ジャポニカでもないインディカでもない、ジャワニカという品種があるんですよ。古代米とも違う。それを作っていたようです。西表には大小さまざまな川があるけれど、その流域はほとんど水田でした。平地が少ないだけ、奧の奧まで耕していた。祖納部落の田んぼは道がないところにありましたから、中学までは舟をこいで田んぼへ行っていたんです」
安心米の品種はタイコウ。コシヒカリでもヒトメボレでもない。なかなか耳にしたことがないお米だ。ヤマト(本州)と西表では気候が違う。違う気候なのだから、品種も違って当然なのだ。大正時代の台湾では、日本の研究者が台湾の気候に合う米の研究をしていたという。その後、より美味しいものへと何度も品種改良されたのがタイコウなのだ。
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文化としての稲作を継承する。
西表では、稲作儀礼として沢山の歌や踊りの芸能が生まれてきた。西表の伝統文化は、稲作文化だと金星さんは言う。金星さんは東京で大学生活をおくり、卒業後那覇で教職に就いた。そして沖縄が日本に復帰した72年に西表に戻った。
「お米は人間が手をかけてきた文化ですからね。西表の文化というのは、稲作文化なんですよ。島のいろんな行事もすべてお米。豊作を賜りますように、そのおかげで村も豊かになって、みんなの暮らしも豊かになる。お米が実るのは、やっぱり神様のおかげなんです。『神様、水を下さい、お日さまを下さい』と祈る。祈りが行事の基本ですから」
種をまいたときから稲刈りまで、祈りとともにいろいろな歌が田んぼで歌われる。金星さんが三線を弾くようになったのは、那覇時代。子供の頃、三線は不良の楽器と言われ、弾くことはおろか、触らせてももらえなかったという。しかし毎年繰り返される稲作の行事や、呑めば毎夜のように歌っていた父親の影響で、歌が身体のなかに染みこんでいったに違いない。
「種をまいたときの『タナドゥリ』。種が下には白い根を生やして、上には青く伸びるように祈る。部落の人が集まって田んぼで丸座になって全部歌うんです。10曲くらいあって、3時間くらいかかります。座るときも大地にあぐらをかく。正座は行儀が悪い。なぜあぐらかと言うと、大地に根が張るように、お尻から白い根が生えるように。種まきの時期は赤子をあやすように、物音を立てない、掃き掃除もしない、薪も割らない。大きな音をたてないようにすることが昔からの言い伝えです。大きな音をたてると、種が驚いて育たなくなる。田植えの時期の『田植びジラー』。稲を激励するための祈願の歌です。植えた稲がススキのようにたくましく育って、実る時期には大きな穂を下さいと祈る。それは3つあります。そして初穂が刈れる頃になったら、初穂を刈って『神様、おかげさまで初穂が賜りました。ありがとうございました』と、まず神様に奉納してから稲刈りが始まる。その日から三線など楽器が入るんです。それまでは歌を歌っても一切手も叩かない。息を潜めているんです」
金星さんは、環境を守り伝統を受け継いでいくことこそに、島の未来を描いている。田んぼでの歌も毎年欠かさない。
西表にも開発の波は押し寄せている。聖地のひとつであるトゥドゥマリの浜には、島の規模とは不釣り合いなリゾートホテルの営業が開始され、今なおホテルは増築を続けている。島の人にとっては年に一日だけ神様と遊んでいいと許された浜には、毎年ウミガメが産卵に来ていたものの、ついに今年は一匹もやって来なかったという。
日本のいたるところで消えていった、その地域ならではの伝統と景色、そして生活のリズム。『日本の端っこ』の西表は、人間にとって何が豊かなのかを教えてくれる。
ヤマネコ印西表安心米のお問い合わせ/
安心米生産組合(代表 那良伊孫一)
TEL & FAX: 0980-85-6302
E-MAIL: ansinmai@fmg.freeserve.ne.jp
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