無農薬や有機栽培というものに、僕はどちらかといったら頭のなかで馬鹿にしていたところがあるんです。白州で実際にはじめて、これは大変だって思いましたよ。最近はもう少し進んで、栽培の方法だけで無農薬とか有機栽培と名付けているわけですけど、それで本当にいいんだろうか、僕たちはもう少し有機的な生活基盤を探さなくていいんだろうか、と考えて農業に向き合っています。農業に対してなのか、自分の暮らす環境なのか。若い人たちの自然への関心は、20年前に比べ高いと思います。どういう生き方をすればいいのかかを探している人が村に来ます。何日間か滞在して、農業を手伝いつつ、その間ボーっと自分の未来を考えているようですよ。 <田中 泯>




標高1000メートルの集落。

 田中泯さんが上芦沢で廃屋を借り、自分たちで修復して住みはじめたのは98年のこと。武田の時代から人が住んでいたその集落は、もっとも多い時では13もの家があったという。敷島町役場の方の紹介で、田中さんが移って来ようとした時、集落に住んでいたのは老夫婦ふたりだけだった。
「この辺りの集落を7つくらい歩いて見てまわって、上芦沢が一番環境もいいところでした。集落全体が完全に南を向いている。富士山が真っ正面に見えますしね。最初にこの集落を見せられた時は、ほとんどの家がボロボロでした。何十年も空き家になっていたわけですからね。僕らは壊れそうな家を直すのが趣味でして。たくさん家を直してきていますから、材木を見ると、ここはこうなっていたんだとかわかるんです。それで崩れかけた家を住めるように直していったんです」
 東京生まれの田中さんが、農業と舞踊の実践の場を求めて山梨へ移住したのは20年前のこと。85年に南アルプスのすそ野にある白州町に身体気象農場を開設し、農と踊の生活をはじめた。白州町は日本の水百選に上げられる水の豊かなところだ。この地域で収穫された武川米は、古くは関東でも有数の献上米だった。土も適度に砂が混ざっていて、米作りには適した場所だった。
「日本で暮らして生きていくっていうのは、どこかでバランスを取って生きているところがありますから。まあ、純粋に生きていくなんてことは、この地球上で生きていくには夢みたいなものなんでしょうけどね。できればそれに近いところで生きていけたら、幸せなんだろうなと思いますけどね。僕は、東京といっても八王子で育ったんですよ。自然がいっぱいで、一日中外で遊んでいた記憶があります。山や畑や田んぼや森がふんだんにありました。白州に移ってきたのは、とにかく芸術舞踊ということにも辟易していましたし、どこかで子供の頃の途中で途切れている何かを見直さなければならないなというのがあったからなんです。
 それから一緒にやっている若い人たちが、アルバイトをして踊りの練習しているわけですよ。それがどうしても僕には分からないことでした。本来は好きなことだけをして人間は生きるべきだろう。でも踊りをやりたくても、現実では踊りだけでは食べていけない。じゃあ食う方法というのは、食うものを自分たちで作ればいいんだっていう考えに到達しましてね。それで『農業をみんなでやらないか』と誘って、白州に移ってきたんです。白州に住んで、実際に畑に入って、草をむしったりしていると、土の近くで生きていることを実感する。僕はそのことに興奮を覚えてしまっただけの話なんです。だから別に都会と農村というように分けて考えたり、比較して考えたりしているわけではないんです。都会と農村は同時存在しなければならないことは明らかなんですから」


家を借り土地を借り
農を続ける。

 田中さんの考えは、農業をやるにあたっての土地も、住むための家屋も借りること。土地を所有することをせずに、何代も続いた地元のお百姓さんに敬意をはらって農作業を続ける。当初は、都会から来た若者に田畑を喜んで貸す農家はほとんどなく、田んぼを借りられたのは住みはじめて3年も経過してからだった。毎年農作業が少なくなる冬になると「今年こそ泯さんたちはいなくなるぞ」と近所の農家の方に囁かれていたという。けれど田中さんは、一度も白州での農業を止めるなんて思ったことがなかった。何か新しい作物を作りたい、今まで自分たちで作ったことのないものを育ててみたい、そんなことばかりを考えていたという。
「最近農業をはじめる人たちと一番決定的に違うのは、僕らは一切所有しないことを原則しているんです。家も借りる、土地も借りる。『もう年をとってやれなくなってしまったから手伝って』って言われたら、『はい、やりましょう』とお手伝いする。そういう農業をやっているんです。何代もかけて農業をやってきた人の土地を買ったって、しょうがないでしょ。だいたい地面に線引きをして、土地を売ったり買ったりすること自体が僕は嫌いです。地面は自分のものではないんですよ。土地を買って農業をやろうというのは、基本的に間違いだと思います。今まで農業を、苦しくても頑張って続けてきて人たちに対して、最初には僕たちは土地を借りてでもお礼をしなくちゃいけないと思います。それでその人たちが『きれいにしていなくて恥ずかしかったな』っていう思いを持てば、僕たちはそれでいいんじゃないですかね。僕たちは踊りをやっている。農作業そのものは、けっこうきついことが沢山ありますよね。踊りという性質が大きな理由のひとつなんですけど、機械にできる限り頼らない農をしています」







自然からもたらされる
アイデア。


 現在白州では3人、桃花村には7〜8名が住み、村での共同生活を続けている。もちろん、無農薬・有機農法での栽培を心がけている。白州と桃花村で、今まで作った作物の数は100を越える。昨年はオリーブの実も初めて収穫できた。温暖な気候で育つと思われているオリーブは、敷島町の比較的暖かいところで栽培されている。作ったお米でオリジナルの日本酒も酒蔵で醸造してもらっている。その酒は強い日本酒の味がする。
 収穫した農作物は自分たちで食べるのはもちろん、通信販売も行っている。週に一度、甲府の朝市に持っていき販売している。白州での農作業は軌道にのり経済的にも自立しているものの、桃花村は、完璧に自分たちの生活を農業だけでまかなうには、もう少し時間がかかりそうだという。
「日本の農業の全体が、一品目重点主義みたいになってきていますでしょ。食べ物も小さな規模で作ることが、だんだん難しくなってきている。ということは、多様なものがどんどん減っていくんです。これからも、単純で大量にできるものに変化していきますよ。日本全体がそうなっていく。そこで頑張ってくれる人がひとりやふとたり増えていないと、まさに味気なくなっていくんじゃないかと思いますね。ここのみんなでやろうとしているのは、なんでもやってみようということ。何でも自分で作って食べてみよう。ひとつずつ自分で確かめていきたい。結局はそれが早道のような気がするんです。一個ずつを自分の身体で試していくっていうことによって、いつかはそんなに大きな無駄をしなくてすむようになると思うんですよ。
 白州でも桃花村でも共同が原則です。農業には経験も必要ですから平等は原則じゃないですね。権利としての平等はあるかもしれないけれど、主張するものじゃないような気がします。一緒に考えなくちゃいけないし、一緒に話し合わなくちゃいけない。庇護する関係は作らない。労働も食事も共同ですから、押しつけたものじゃなくて自分たちのなかで役割分担ができていく。自分の役割が出来るのだから、本人は愚痴を言えないだろうし、言い訳もできないだろう。自分がやろうとしたことは一生懸命勉強していくと思うんです。自然のなかで勉強したことは、いろんなことに利用できると思うんですね。刻々とみんな変わっていますよ。知恵が付いている。知恵っていうのは実行できるものだと思うんです。東京を離れてから20年、愚痴を言うまったく理由のない生活をしています。後から後からやりたいことが、列をなして待っているという感じですから」
 田中泯さんにとって舞踊は職業ではないという。踊りは自分を助けるものでありバランスを保つもの。一方農業は、試行錯誤を繰り返しながら、何がいい方法なのか議論する余地のあるものだという。
「僕の場合は境目を意識しなくなった。ここからが踊りのためで、ここからが農のためというものはなくなってきていますね。ただ職業がなんですかって聞かれたら、農業を職業にしたいと思っていることは確かです。今の地球っていうのは、完全に人間のものにしちゃうのか、それとも他の生き物と分け合うのか。僕は後者のほうしか方法がないだろうし、まだ自然を模倣したり自然からのアイデアは無限にあるんじゃないかと思うんです。人間の頭っていうのは、基本的に代行可能なくらい機械が発達したかに見えているけれど、イメージの世界っていうのは機械には作れないんですね。イマジネーションを鍛えてくれるのは自然だと思います。月が廻ってくれて、太陽の周りを僕らが廻ってという原則そのものが自然だって思えば、自然は無くならないし、たぶん空も無くならないと思うんです。でももっともっとディテールの自然っていうものを、人間は無くしちゃいけないと思いますね。そのことを白州や桃花村で住むことによって、本気で思うようになったってことでしょうかね。人間相手だと永久のダメージみたいなものがありますけど、自然は一年我慢すれば、もう一度試させてくれる。自然相手では退屈することなんてないですから。まだまだ勉強できることがある。まだまだなんてものじゃなくて無限にありますよ」
 農業によって自然を相手にする。自然は人間にいろんなことを教えてくれる。自然からの恵みは、とてつもなく大きく豊かだ。田中泯さんは踊ることによって自分と向き合い、農作業によって仲間や地球と会話する。