![]() vol.08 文 ・ 川内一作 絵 ・ 遠藤聡明 ![]() |
ミルキー・ウエイがざわついている。 東京の情けない星空しか眺めていないからこんな夜空は信用できない。まして月あかりのない新月の夜だ。なおさらそのヒラメキは現実とは思えず、田舎芝居のインチキなカキワリに見えてパチパチと拍手をしたくなった。 カウアイ島、ナ・パリの東、フラの聖地ラカ・ヘイアウ。 深夜。サンディーがクムフラになるための儀式がこれから始ろうとしている。 ナ・パリ・コーストの天候は移り気だ。 満点の星空は数分後には雨雲におおわれ大粒の雨を降らせた。海からの貿易風は雨に濡れた体から熱を奪いとり、星のなくなった真っ黒な闇のなかで体は鉄のように冷えきっていた。そしてまた星空。断続的にくり返すそのような天候のなかで、ぼくと数人の関係者は闇のなかで東京の垢を落とす時間をたっぷりと与えられ、聖地の岩に座ってそのときを待った。束の間の苦行、インスタント・カルマ。 待つこと一時間、この日クムフラとなるサンディーと次の世代をになう十六歳のピカケ宮本、それにこの二人の師であるクムフラ・パティ・ケアロハラニ・ライトが、いまぼくらがいるラカ・ヘイアウに捧げるチャントを唱えながら現れる。星あかりだけがたよりの闇のなかで顔はほとんど見えない。この場所に上がってくるまでの二日間、サンディーとピカケはミソギをたてるために誰にも会わない場所でカプの時間を持っている。ラカ・ヘイアウに捧げるチャントが終わるとまた静寂が戻る。三人はこのウニキを承認するためにハワイ各島からやってくるクムフラの到着を待っている。さらにどれほどの時間が過ぎただろうか、冷えきった体が睡魔をさそいはじめ、スバル星座が頭上に輝いたとき、やはりチャントを唱えながらクムフラたちが続々とラカヘイアウに到着した。この日のウニキのためにやってきたクムフラは十数人にのぼり、通常の倍の人数になった。彼らのなかには七〇代、八〇代といった高齢の方もいて真夜中の山道をこの場所まであがってくるだけでタイヘンなことだ。 やがて二本のささやかなかがり火が焚かれた。それ以外は星あかりだけのなかでイプのリズムが響きサンディーのチャントが始った。そして今年で十六になったピカケがフラカヒコを舞い続ける。十六歳のしなやかな体が演じるカヒコは徐々に振幅をひろげ、躍動し、サンディーの唱えるチャントに呼応し、わずかな光に照らされて、背後の岩壁に神秘的な幻影を刻んだ。二日間のカプをへて、すでにあらゆる準備ができた状態で臨んだ二人のセッションは次第にトランスへと昇りつめた。クムフラたちの鋭い視線がそれを追った。ぼくはくりひろげられている見事なパフォーマンスを眺めながら、まるで違う感覚で二つのことを考えていた。 まずひとつは九年という歳月をへて、サンディーをクムフラとして産み落とそうとしているパティー・ケアロハラニ・ライトは白人である。彼女は彼女自身がクムフラへの修行を始めた若い時期に、ハワイアンから「何故オマエは白人なのにクムフラを目指すのか?」と問われたという。そして今、見事なカヒコを舞っているピカケ宮本は日本とタイのハーフであり、ピカケ宮本を踊らせるチャントを唱えているサンディは日本とアメリカのハーフである。しかし、ハワイアンの血をまったく受け継いでいないこの三人が生み出すセッションを見守っている十数人のクムフラはハワイアンである。彼らはどういう思いでこのウニキに立ち会っているのだろうか。この日集まったクムフラのなかでも特別な存在である、カウアイ島のプナ・ドーソンはクムフラの家系の出身であるにもかかわらず。パティー・ケアロハラニ・ライトという白人が自分達の伝統を受け継ぎ、さらに他民族のサンディーにそれを伝えるという難解なココロミに対して非常に協力的だ。サンディーがクムフラの修業を始めてすでに九年たっている。その修業はハワイアンのそれとはちがう意味あいのものだと思う。白人であるがゆえにハワイアンよりもキビシイ修業をせざるをえなかったパティ・ケアロハラニ・ライトのすべてを受け継ぐサンディーもまた長い鍛練の時間を持った。ハワイアンに自然に備わっているアタリマエのことを、彼女たちは勤勉さと努力でおぎなうしかなかった。いいかえればそれはパティ・ケアロハラニ・ライトとサンディーが精神的な試行錯誤をくりかえし、尊重しあいながらも激しいせめぎあいを続けたこの九年間のマナビの軌跡なのだ。二人の大きなささえであり、これからの指標にもなっているプナ・ドーソンはその過程をよく理解している。 そしてもうひとつは「俺はなぜここにいるんだろう?」という個人的な問いかけだった。 考えたらサンディーを最初に見たのは一九八二年のクーリーズ・クリークだった。サンセッツの時代、パキパキのニューウェイブ。ボブ・マーリィーが死んだ年で、あのとき誰もが感じたように、ぼくのココロのなかにも精神的なある変化がおこった時期だ。しかし彼女の熱心なファンではなかったぼくが、あれから二〇年近くたって彼女のフラの取材を始めたのはなぜなのか。 一九九二年の春にある雑誌の取材でぼくはハワイ島のヒロを訪れた。イノチの祭りのあとで、多くのことにオリアイがつけられるようになっていた時期だ。ヒロではクムフラの系譜であるジョージ・ナオペやカナカオレ一族の取材を続け、とどのつまり精神的な旅のユクスエにフラに出会ったといったキイタフウナ話しを書いた。多分、そのときのことが伏線となってサンディーの取材を始めることになったのだろう。しかし、実際サンディーがクムフラになっていく過程をつぶさに見せられて、あのときの取材がいかに未熟だったか、そして、なるほどクムフラになるということはこういうことなんだとよく理解できた。白人と、日本と白人のハーフと、日本とタイのハーフの三人がハワイのネイティブな聖地でそのタマシイを正々堂々と表現している。それは強い意志がにじみ出ていていさぎよくて泣けた。しかしなぜ俺はここにいるのか、そして今ここにいる俺は誰なのか、答えは見つかっていない。ありがたいことにクーリーズ・クリークで出会った真夜中のメディスンマンたちは、あらゆるところに作為的な仕掛けをほどこしていて、ぼく自身が思いもしなかった方向に舵をとってゆく。それはぼくの意志とは無関係で、ぼくはただ、だらしなく漂流しているだけなのだ。 星がかげり、さらに激しい雨が降ってきた。風は力を増して被っていたフードを吹き飛ばした。ラウハラが風できしみ、雨音が耳をふさいだ。雨は岩肌をつたい小さな滝となった。冷えきった体は限界を超えた。眠い、寒い、腹が減った、ビールが飲みたい。もうどうにでもなれと雨のなかに身を投げ出した。 そのような状況でクムフラ、サンディー・マヌメレは誕生した。 ラカ・ヘイアウ=フラの女神が宿る聖地 クムフラ=フラマスター、ハワイ文化の伝導師 チャント=古典フラを舞うときに唱えられる、 クムフラになるには三百以上の チャントをハワイ語で覚えなければ ならない。 ウニキ=フラの卒業式 カプ=タブー、みそぎ フラ・カヒコ=古典フラ |