忘れてはイケナイ物語。

 ピカドン的なることを、やらざるを得ないなと思い出したのは、アメリカに住み始めてからです。ちょうど10年ほど前のことですが、気が付いたら日本は戦後50年目を迎えていた。やっぱり遠くから見ると、不思議に日本も違う見え方をするものなんですよね。僕が持ったその時の印象では、50年も経ったんだからあの戦争を終わりにしようぜ、なかったことにしようぜ、みたいな気風がみちみちて見えたんですね。そんなことをぼんやり考えている時に、ニューヨークの書店でひょいとぶちあたったのが文庫版の野坂昭如の『戦争童話集』だった。読んでみたら、僕がぼんやり考えていることが、あぶり出されるようにそこに書いてあった。僕は野坂さんの弟子みたいなもので、長い間彼のケツに付いて歩いていたはずなのに、何も勉強していなかった。「人間の歴史が始まって以来、戦後なんて言葉はあり得ない。いつも戦時中じゃないか。人間の歴史なんていつも戦時中なんだ」というメッセージ。そして、戦争が始まった時には弱いものから巻き込まれていくという視点。その弱いものの範疇が人間だけじゃないんですね。草とか木とか、お米とか、虫とか小鳥とか。ライオンやトラや象といった動物たち。そいつらが戦争の巻き添えになっていく。そして人間の子供たち。野坂さんの切り取り方に感動してしまったんですね。こういう角度から戦争のことを切り込んでいける人がいるんだということを知った。
 一人でも多くの人にこの本を読んでもらいたい。当時は活字離れが顕著でした。しかも野坂さんの小説はみんな難しいと思っている。『戦争童話集』を広めるためには、僕が何百冊も買って人にあげるよりも、絵本にするほうがいいと思ったんです。それは恐れを知らない発想ですよ。それで絵本化したんです。次にはアニメーションならもっと見る人が増えるだろう。それでアニメーション化に向けて動き出した。実現するまでは、多くの友人に助けてもらいました。
 最後の12話を作る時に、みんなはこれで最後だから頑張ろうぜとか言っていたんですけど、僕のなかでは何の達成感もない。いろんな人を巻き込んでやったから、もうちょっと感動とか感激とかがあると思っていたけれど、なんか不完全燃焼。それは僕の性格的なものかもしれないけれど、何もなかったんですね。何なんだろうって考えた。12話すべての冒頭が「昭和二十年八月十五日」から始まるんです。読んでいくと舞台とおぼしきところが見えてくる。でも抜けているところがあるんですよ。広島、長崎、沖縄が抜けている。野坂さんの気持ちはおおよそわかったんですけど、12話のアニメーションの制作が終わった時に野坂さんにお尋ねしたんです。「野坂さん、広島、長崎、沖縄が抜けていますけど」と。「黒田ね、垂直に空から爆撃される戦争を俺は体験している。水平に弾が飛んできて、敵が上陸してくるんだぞ、沖縄地上戦というのは。そんなところにまで、俺の想像は及ばない。だから俺には書けないんだ」と野坂さんは胸の内を明かしてくれました。その時には、何かに背中を押されているんですね。このままでは止めたくない、という思いもあったんでしょう。沖縄には行きたくないと言っていた野坂さんを沖縄に連れていったり、すったもんだの末にできたのが絵本の『ウミガメと少年』とDVDの『忘れてはイケナイ物語 オキナワ』だったんです。

キノコ雲を描き始めたきっかけ。

 12話を作っている時にフランス政府が南太平洋で核実験の再開をした。その次の日からキノコ雲の絵を描き始めたんです。イデオロギッシュじゃなくて、本当に突き放したところで描いてみよう、単なるキノコ雲の形状を描こうと思った。考えてみれば、あの雲は怖ろしいことがあって立ち起こるんだけれど、フォルムだけを見たらチャーミングで、ユーモラスなんです。色もものすごく綺麗。昆虫が火を綺麗だと思って飛び込んでいくのと同じで、人間という生きものもそういう宿命を持っているのかなと。そんなことも考えながら、色と形だけ追求して、とりあえず描いてみようと思ったんです。一人でこれをやるのは続かないだろうなと思って、東京にいる若いアーティストの山辺宏延を巻き込んだ。お前は東京にいるから東京で描いて、俺はニューヨークで描く。それをポストカード仕立てにしてお互いに送る。そういうコラボレーションをやらないかと。それが続いちゃったんです。二人の往復書簡みたいなものが、三千枚以上ある。
 三千枚描いているうちに、ひょいと出てきたのが、ピカドン・プロジェクトのイメージとなっている絵なんですよ。左側がキノコ雲。ある時に描いたキノコ雲をひっくり返して見たら、水差しに見えた。水差しに水を入れて、稲でもなんでもいいから植物を入れれば育っていく。三千枚描いたからこそ出てきた絵だったんですね。
 『ウミガメと少年』のアニメーションを作ったり、往復書簡をやっていたりする間に9・11が起こっちゃった。ジョージ・ブッシュが、アメリカ政府が、世界貿易センターの跡地をグランド・ゼロと言いだした。その時、僕はとっさに思ったんです。「ふざけるな」と。あなたたちがあそこをグランド・ゼロと呼ぶのならば、僕もめくるカードがある。そのカードが原爆を落とされた広島であり長崎です。日本以外でも、南京とか朝鮮とか、世の中にはいっぱいグランド・ゼロがある。簡単にグランド・ゼロを振りかざさないでほしい。アメリカがグランド・ゼロを振りかざせば振りかざすだけ、それがプロパガンダに見えてくる。その時にピカドン・プロジェクトをやろうと思ったんです。絶対にやってやろうと思った。

profile_黒田征太郎
1939年大阪府生まれ。壁画制作、ライブペインティングなど幅広いアーティスト活動を展開。92年にニューヨークへ移住。94年より『野坂昭如 戦争童話集 忘れてはイケナイ物語』映像化プロジェクトを開始した。ピカドン・プロジェクトはこの秋にニューヨークとロンドンでライブが予定されている。
http://www.pikadon.jp/top.html
米を作るように絵を描く。

 ピカドン・プロジェクトで僕らが何をやりたいのか。ピカドンは反核とか反戦運動じゃない。そうはしたくない。あえて言えば、衣食住のことを考えてみること。この日本という国では、衣も足り食も足り住もほとんどの人が足りているわけですよ。やっぱり足りていることを有り難いと思わないと、罰が当たると思うんですね。罰が当たるのが嫌だから、考えてお祈りしようぜぐらいのものなんです。神様に「来年も喰えますように」と手を合わせるのがお祈りじゃない。昔の人のお祈りというのは、ちゃんと米粒を大事にしたり、最後のところまでちゃんと食べたりすることだった。腐ったお米はちゃんと洗って天日に干してお菓子にして食べたりね。
 自然発生的に、いろんなところでピカドン・プロジェクトが起こればいい。ピカドンの絵は、自分の作品でもなければ他の誰のものでもないですからね。憧れですけど、僕はお百姓さんが米を作るように絵を描きたい、漁師さんが魚を捕るように絵を描きたい。そう思っています。お百姓さんが一粒一粒のお米に対して、この作品は・・・、なんて言っていないでしょ。嘘じゃなくて、僕は自分の描いたものがどうなっているのか、まったく気にしていません。
 僕にとってのピカドンというのは喰えることなんですね。喰えない人が、世界中にはどれだけいるかっていうことです。十分に足りているのなら、喰えないところに回してあげろよ、ということなんです。それにはどうしたらいいのかということを、踊ったりしながら、イェーイって言いながら考えていこうぜと。そういうところに落とし込んでいければいいなということなんですよ。ピカドンというのは僕らの専売特許でもなんでもなくて、どなたでもオッケーで、いろんな人がいろんなピカドンをやっていけばいいんです。それが僕の思いなんです。
 沖縄にテアンダーという言葉があります。要するに、すべての智慧はおばあちゃんの手のひらにあるということ。みんなの心にテアンダーがあれば、共存して生きていく方法が見つかると思うんです。