![]() |
『クラッシュ』 |
|
敵意が炸裂しあう現代の自画像 文・片岡真由美 |
||
|
|
||
|
「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何かを要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである」(『逝きし世の面影』渡辺京二著) と、イギリスの詩人エドウィン・アーノルドが絶賛したのは、百年以上前の日本人。今となっては幻の理想郷だ。 ロサンジェルスの1日半の出来事を描いた『クラッシュ』には、「すぐかっとなる人」や「罵言を吐いたり」する人たちが次から次に出てくる。多種多様な人種と階級に属する登場人物たちは、全員がロサンジェルスに住んでいるとはいえ、居住地区は厳然と異なり、その人生が交差することはほとんどない。だが、総勢15人以上の彼らは、36時間の中でふとした偶然に出会い、互いに影響を及ぼしあう。ある者は差別する者として、ある者は差別される者として。だが、ここで差別された者も、別の場所では差別する側に回ったり、あるいはその鬱憤から犯罪に走って加害者になってしまう。街の至るところで敵意が炸裂しあっているのだ。 悪玉と善玉を色分けすることなく、誰の中にもある他者への敵意、差別意識、被害者意識と、差別された時の屈辱や憤怒をありありと描く。敵意を向けられるから敵意で反応する、絶望的な連鎖。 ここまであからさまで暴力的ではなくとも、他者への敵意は私たちにもすっかり馴染みのものだ。電車が数分遅れたといっては苛立ち、ちょっとした言葉遣いに腹を立てる。百年前には礼節であったものは、今では無関心という名の冷たさに変貌している。 人種差別主義者の警官を演じるマット・ディロンがはまり役。彼こそが後半でこの絶望的な連鎖を僅かに断ち切ってくれるのだ。 |
|
|
|
『ラストディズ』
|
||
多くの謎だけが残る突然の死。 故カート・コパーン最期の2日間を巨匠サントが凝視! 文・遠藤聡明 |
||
|
|
||
|
サードアルバム『イン・ユーテロ』が発売と同時に米英で同時一位という絶頂期、1993年4月5日。グランジ・ロックの最高峰、ニルヴァーナのヴォーカリスト、カート・コパーンは自宅のバスルームに引きこもり自らの頭部をライフルで撃ち抜いた。 前提として、本作は通常の評伝的作品群とは完全に一線を外す。サント監督同様の名作『エレファント』に続く一連三部作の最終章として認識してよさそうだ。否、前作に比べ、よりそぎ落とした骨格に、澄んだ映像美から発するヴァイブが共鳴し、観る者の想像力を幾重にも波立たせる。 脚本が過度に顔を覗かせる事無く、フィクションとノンフィクションという低次の二元論をしなやかにくぐり抜け、多用するサンプリング感覚溢れる時間軸の積み重ねは、既にサント調と括ってもよい程の切れ味。 制作にあたりコパーンに関する取材は極力避けたそうだが、それにより、アーチストの死を一方通行の啓蒙主義で終わらせない事に成功している。サント自身のコパーン、イコール役名上のブレイク(マイケル・ピット)はそんな過程の中で生まれた「サクセス」という魔物に取り憑かれた孤独な一青年にすぎない。彼の二日間を、日常の風景としてじっと眺める事で、コパーンに限らずキャパシティーを越えた賞賛の次ぎに訪れるであろう虚無感が見事に表出する。 リアリティーを重視するサント作品らしく、スタッフとして、音楽コンサルタントなる役どころにソニック・ユースのサーストン・ムーアを据えた事で、楽器の細部、演奏上のフォームにまでミュージシャンシップが貫かれており演奏シーンでしらける事はまず無い。 カート・コパーンという稀代のアーチストの自殺原因は観賞後も謎のままだが、彼が音楽が好きで、純粋に表現活動を押し進めていたことは確信できる。そしてサントは彼を澄んだ朝空へと昇華させる。 |
|
|