チェルノブイリ20周年祈念
日本にも「反原発ブームがあった」

文 ・ ポン(山田塊也)  写真 ・ 柴田庸介、今 和明
 20年も昔の原発事故のことなど若者たちの記憶には無いと思うが、あの事故が地球を総汚染したのみならず、人類史に決定的な影響を与えて来たことを知っておいて欲しい。
 というのは、あの事故が原因となって5年後にソ連という国が滅亡し、東西のバランスが崩れて、アメリカングローバリズムの一極体制がのさぼり、15年目には「9・11テロ」の反撃が起き、アフガン、イラク戦争を経て20年目の今春、わが国の再処理工場でついに核燃料入りの試運動が開始されようとしているからだ。「唯一の被曝国」がアメリカの核傘下で企む「平和利用」とは、日の丸印の核兵器づくりなのではないのか?
 核開発は秘密のヴェールに包まれていた。原発の建設が本格化した70年代は、経済成長に伴う乱開発に対して、百姓や漁師を前面に立てた地域住民闘争が燃え上がった時代だ。ぼくらは奄美にコミューンを築き、石油基地反対運動に参加していたので全国の住民運動のネットワークに繋がっていたが、原発現地に反対運動は無かった。「原発城下町」という言葉があるように、そこは計画段階から行政当局と電力会社に囲い込まれ、反対すれば村八分にされたのだ。
 原子力は石炭、石油に次ぐ第三のエネルギーであり、原発を怖れるのは野獣が火を怖れるようなものだと、マスコミは安全神話をキャンペーンした。当時から「原発と天皇と大麻はマスコミの三大タブー」と言われていた。タブーとは「真実を報らせてはならない」という意味だ。
 もちろん「唯一の被曝国」として「反核」は大義だが、それは軍事利用に反対しているだけで、「平和利用」はオーケーというのが与野党一致した見解であり、常識とされた。そのため「反原発」を唱えるマイノリティは労働運動から平和運動まで相手にされず、「原発、原爆一字ちがい、どちらにしても地獄行き」というステッカーを作ったグループには「過激派」「アナキスト」などのレッテルが貼られた。
 80年に入るや奄美、徳之島に、核再処理工場の噂が動き出し、ぼくらはキビ刈り援農を全国に呼びかけ「反核予防戦線」をオーガナイズしたが、84年春、下北半島六ヶ所村に用地が決定した。チェルノブイリ事故はそれから2年後のことだ。
 事故の恐るべき実態と共に、放射能に直撃されたヨーロッパの国々では、10万、20万とういう規模の反原発デモが燃え上がっていることが伝わってきた。当時すでに30数基の原発が稼動していた日本でも、ついに反原発の旗のひらめくデモが登場した。この時「過激派アナキスト」になったのは、全国各地で催された「広瀬隆原発講演会」に集まった子連れの女や失業中の男などの一般市民と、「ホピの予言」上映会に集まったカウンター・カルチュア系のヒッピー、フリークスなど「社会的弱者」や「はみ出し者」たちだった。
 88年2月、伊方原発出力テストには「まだ間に合うのなら」を合言葉に、全国から数千人が高松に集まり、「原発サラバ記念日」と称して祭衣装に身を包み、路上ダイ・インや「原発無くしてもええじゃないか」の歌と踊りに興じた。更に4月には東京1万人デモの呼びかけに、華麗なる2万人の春風パレードが銀座を練り歩いた。
 この運動の波は原発各地をデモで襲いながら、8月には八ヶ岳で「88いのちの祭り」を催し、「ノーニュークス ワンラヴ」の大爆発となった。やがて反原発ブームは「おたかさんブーム」に便乗し、社会党の衰退と共に消滅してしまった。とはいえ反原発意識が変節したわけではない。米ソ二強対立が消滅して以来、「○○反対」というパラダイムが敬遠され、何でもありの世紀末用にシフトされたのが「オルターナティヴ」というわけだ。もう一つの、別の選択肢という意味だ。
 地球温暖化対策として化石燃料の代替に、政府権力が決めた原子力でなく、消費者である人民が主体的に選択するオルターナティヴには、ソーラーや風力、地熱、水力、潮力、燃料電池、そして各種バイオマス。
 ブッシュ大統領は今年になって二つのエネルギー政策を打ち出した。一つはスリーマイル島事故以来モラトリアムにしてきた核燃料サイクルの開発を再開し、原子力推進に本腰を入れること。もう一つは廃棄物利用の「木質バイオマス」の開発である。
 前者は日本やインドなどの原子力産業を煽るための外交カードかも知れない。後者は大麻の合法化はありえないという宣言なのか。というのも、脱原発をめざすヨーロッパの国々では、CO2排出ゼロに近い「ヘンプバイオマス」を開発し、すでに実用段階にあるとか。「『ラヴ&ピース』の大麻と原子力が共存しえないことをチェルノブイリ事故後の20年は証明した」。そこでブッシュ流に言えば「テロリストの大麻汚染か、帝国の放射能治療か?」となる。


profile_山田塊也(通称ポン)
1937年飛騨高山生。小学6年時、脊髄カリエスにて“せむし”に。高校中退後、街頭似顔絵業を経て「新宿ビートニック」となる。67年ヒッピーコミューン運動「部族」創立に参加。「諏訪之瀬島を守れ ヤマハボイコット」運動を経て、75年奄美大島に「無我利道場」を設立、石油と核の基地計画を粉砕し、87年高山へUターン。「88いのちの祭り」を奉納。98年より酸素吸入器使用の身となる。00年高山を去り、娘たちを頼り岐阜、秩父を経て、寄居に在住。著書に『アイ・アム・ヒッピー』『トワイライト・フリークス』など。 http://amanakuni.net/pon/