ヤンバルの森の自給自足。

西アフリカで出会ったプリミティブな暮らし。そして自然農法の教え。ふたつの「気持ち良い」を求めた先にあったのが沖縄だった。ヤンバルの森で、家族とともに自給自足を目指す暮らしがはじまった。


文・菊地 崇  写真・鈴木 完







 沖縄本島の北部。山々が連なり、うっそうとした森が広がっている地域がある。ヤンバル(山原)だ。ゲリラ訓練基地として使用されたアメリカ軍で唯一のジャングル訓練場である北部演習場があったおかげで、皮肉にもヤンバルの自然は守られてきた。経済を優先させた開発という名の環境破壊を逃れてきた。
 照葉樹のイタジイを主役にしたヤンバルの森。新芽がまるで大きなぜんまいのような植物はヒカゲヘゴだ。成長すると高さ一〇メートルにも及ぶこのシダは、南国の景観を演出してくれる。内地とはまったく違った亜熱帯の植生。多様性と重層構造が濃い緑の森を作っている。飛べない鳥のヤンバルクイナやノグチゲラなど、地球でこの森にしかいない固有種も多い。イタジイの森には〈キジムナー(森の妖精)〉が宿っていると伝えられている。
 ヤンバルの東村・高江に土地を見つけ、森岡尚子さんが和鼓ちゃんを連れて石垣島から移ってきたのが二〇〇五年秋のことだった。ご主人の浩二さんは、初めての自分たちの家を建てるために数ヶ月早く高江に来ていた。
 この場所を見つけるまで、浩二さんと尚子さんが出会ってから五年の月日が流れていた。

西アフリカへの旅が
教えてくれたもの。


 東京で生まれ育った尚子さんは、ごく自然にアフリカへ興味を抱くようになったという。初めての海外は高校時代の夏休み。語学留学でイギリスに滞在した。授業が休みの日にはロンドンへ遊びに行っていた。
「家からは代々木が一番近い駅だったんです。予備校の代々木ゼミナールがある街。歩いている受験生がみんな暗い顔をしている。自分も大きくなって受験時期にさしかかったら、こういう顔になってしまうのかなって思っていました。楽しくないことって誰もやりたくないはず。窮屈さというか、嫌だなというのは子供心に感じていたんでしょうね。小さな頃からアフリカやレゲエが好きでした。ロンドンにはアフリカ系やジャマイカ系の人がたくさんいる。音楽も豊かだし、いろんな文化の人がいる。日本に帰ってきてからは、いつかはロンドンに絶対に住みたいなと思っていました」
 高校卒業後、大学の写真科へ進学したものの、お金にしろ時間にしろ無駄が多いと感じて、結局は中退。そして高校時代に抱いた夢を実現するためにロンドンへと旅立っていった。
「前世は西アフリカにいたなって思うことがあるんです。例えばこんなエピソード。ロンドンで住みはじめてすぐの頃、アパートの近くにバティックの教室があったんです。絵は好きだけど自分では描けないと思っていたんですね。ただ染織りには興味があったから行ってみたんですよ。ろうけつ染めの技術や方法を教わる前に、『何か描いてごらん』って言われて。何も考えずに最初に描いたのがアフリカ人の顔だったんです。『絵を描けるんだ、私も』って思って」
 自分の力ではなく、何かに描かされているような感覚があったに違いない。アフリカが尚子さんを見えない力によって引き寄せていたのかもしれない。その力によって、彼女の身体を通過して生まれた絵。
 日本からは遠い西アフリカも、ロンドンからなら近い。一度目のアフリカ行きはジブラルタル海峡を渡ってモロッコまで。もっと南まで下って行きたかったのだけど、体調不良になりロンドンに戻ったのだという。
 二度目、三度目の旅は西アフリカへ。マリ、コートジボアール、ブルキナファソ、カメルーン、ガーナと巡った。ガイドブックもなく、知り合いのつてをたよりに旅を続けていたという。お世話になった人に、また次の旅先で訪ねるべき人を教えてもらう。結果として人の家を転々としていった。ヨーロッパの近代文明とはかけ離れたプリミティブな暮らし。電気などのいわゆる便利なものはないけれど、人の心が豊かな大地。尚子さんが求めている暮らしがそこにはあった。
「東京にいたら、電気にしても水道にしてもすべてがそろっている。無いところに行ったらそれがあることが有り難いと思えるかもしれないけれど、もともとすべてがあったところで育ったから有り難いものだっていうことさえわからなかったんですよね。都市には便利なものがあるにも関わらず、心が豊かじゃない人も多い。居心地の悪さを心のどこかで感じていたんでしょうね。それで海外に出てみた。ロンドンとはいえ、東京に比べるとずいぶん素朴な暮らしがあるんですよ。なんかホッとしたんです。自分にとってのさらなる大きな転機は旅でした。近代文明からほど遠いところへ行ったら本当に気持ちが良かったんです。身体が正直になれる。人と接していても、歩いているだけでも、何をしていても気持ち良い。何もしていなくても、ただそこにいるだけで気持ち良い。一度身体で感じてしまったことって、本当に大きいですよね」


『わら一本の革命』との
運命的な出会い。


 尚子さんはロンドンでおよそ一年半暮らして帰国した。ろうけつ染めで描いた絵、そしてアフリカで撮った写真をポストカードにして、何軒かのショップで販売を開始した。絵や写真が人の目に留まり、日本各地で個展を開くようになった。
 ロンドンでも個展を開くチャンスが巡ってきた。しかし彼女はロンドンへ飛ばなかった。それは一冊の本との出会いによってもたらされた結果だった。福岡正信さんの『自然農法わら一本の革命』だ。尚子さんは自分の生き方を振り返り、自分の未来の生きている姿を思い描くことになる。
「気持ちの半分は、常にアフリカと日本を行ったり来たりしていたんですよ。そんな時に福岡さんの本を読んでしまった。『これだ!』という確信がありました。自然農法は他の農業と全然違います。農業だけにとどまらずもっと大切なことを教えてくれる。普通の女の人で農業にまったく興味がなかった人でも読むと『これなら私にもできるかもしれない。やってみたい』と思う人がいるみたいです。自分も農業を知らないんだけど、これならできるかなという気持ちもありました。『わら一本の革命』を読むことは、自分が旅をして、いろんなアフリカの国を見てきたことを確認する作業だったんですよね。『やっぱりそうだ』っていう気持ちが、読み進むうちにどんどん心のなかで大きくなっていって…。読んでいて涙が溢れてきたんです。そんなことは初めての経験でした。ロンドンでの個展の日時も決まっていたんですけど、すべてキャンセルして、福岡さんのところに行くしかないと決意したんです」
 福岡正信さんは、自然に極力負荷をかけない農法で、不耕起・無肥料・無農薬で、雑草や虫などと共存する農法を説いた。愛媛にある福岡さんの農園にある小屋で寝泊まりしながら、福岡正信さんの教えを学んでいった尚子さん。インドやタイなどで行われた福岡さんの活動に同行することもあった。
「京大の大学祭のお手伝いをさせてもらったりもしたんです。けど、早く自分でもやりたいという気持ちが、福岡さんのところにいればいるほど強くなっていったんです」




旅の終着点
   ~家族で暮らす沖縄。


 尚子さんにとって沖縄も特別な場所だった。大好きな沖縄へ旅立ったのも、ろうけつ染めの個展がきっかけだった。沖縄本島で畑を借りて暮らしはじめたものの、自分の夢を手にするまでにはいくつもの壁が立ちふさがっていた。そんな時ご主人となる浩二さんと出会い、二人で土地を探しはじめた。浩二さんもアジアの旅を経た後に農業に出会い、沖縄に来ていた。
 アフリカで見、福岡さんの農園で思い描いた自給自足の暮らし。その実現には、日本人の二人にとってはどうしても田んぼが必要になる。野菜だけではなく、お米も作りたい。しかし沖縄本島には田んぼが少ない。国頭マージと呼ばれる酸性の赤土は、養分を蓄える力が少なくお米には適さないと言われている。しかも一九六〇年代初頭のキューバ危機によって、田んぼのほとんどがサトウキビ畑へと転換していった。
 田んぼを求めて、沖縄や八重山のなかで引っ越しを繰り返す二人。なかなか満足できる場所が見つからなく、一度は九州・宮崎にまで足を広げたこともあった。宮崎では契約寸前まで話が進んでいたものの、やはり沖縄への想いは捨て切れなかった。
「沖縄の人が海洋民族だったこともあって、いろんな文化を受け入れる許容があるんですよ。チャンプルーっていうけれど、気持ちもすごく暖かく感じられる。アフリカで好きだった樹やインドで好きだった樹が沖縄にはあった。数限りなく引っ越しをして、その都度にかなりのドラマがあって…」
 旅、そして農業。その二つで学んだことを日々の暮らしのなかに取り入れながら楽しみを見つけること。これを実現するには、沖縄という場所が最適だったに違いない。
 長く住んだ石垣島では、電気がない暮らしをずいぶん続けた。電気のない家で、子供も生まれた。二人で探し続けて五年。ヤンバルの高江に土地がある、引っ越して来ないかという誘いがあった。同時に、高江からは少し離れているものの隣村に田んぼを貸してくれるという話も舞い込んできた。ついに、限りなく求めていたものに近い場所を見つけることができた。浩二さんは一人だけ先に移住して、テントで寝泊まりしながら家を作りはじめた。尚子さんは本(『沖縄、島ごはん』)の仕事を終え、三カ月後に和鼓ちゃんと高江にやってきた。
「沖縄では何かをやる前に必ずウガンするんです。畑に入る前にもウガンするし、田んぼから帰る時にもウガンする。田んぼを貸してくれているおじいとおばあには本当にいろんなことを教えてもらっています。日々の暮らしのなかに祈りがある。ウガンとは御願と書きます。何かうまくいかないとウガンブスクと言われます。願うことが不足しているからうまくいかない。祈りは地球上のどこにでもあります。アニミズムというか、すべてのものに神様がいて人は謙虚に手を合わせる。私が好きな場所には当たり前にあったそんな暮らしが、今も沖縄には残っているんですよ」
 樹に生命が宿っている。照葉樹が集まった緑深き森が雨をたたえ、水は川となり海へと注いでいく。森の栄養を蓄えた水は、海のなかも豊かにする。そして太陽の力によって雲となった水はやがて樹に降り注ぐ。高江では、そんな自然の循環が目の前で起こっている。
「旅がしたくて旅を続けていたわけではなくて、居心地の良い場所を求めて旅をしていた。自給自足的な生活がしたくて、そういう場所をずっと探していたんでしょうね。旅先で味わった暮らしに、自分たちも近づいていけたらいいなと思います。つい先日、知りあいがねんざをしたから、芋パスターをして病院に行ったんです。芋パスターとは、芋を擦ってシップのように塗る自然療法。それを見た先生が『なんだ、そんな原始人のようなことをして』と。原始人っていう言葉が妙に気に入っているんです。原始人っぽい生活が理想。まだその理想とは離れているけれど、ゆっくりゆっくり自分たちの理想的な暮らしに近づいていければいいな」と尚子さん。
 〇六年三月。イタジイの森にも目に優しい新芽の季節がやってきた。紅葉がない照葉樹の森では、一年でもっとも森が輝いて見える季節。深い緑から黄色までのグラデーションが、立体感を増したような錯覚を人の目に与えてくれる。ちょうどこの時期が田植えの頃だ。森岡家にとってヤンバルでの二度目の米作りがはじまった。




profile_森岡尚子
1972年東京生まれ。大学の写真科を中退してロンドンへ。小さい頃から興味を抱いていた西アフリカで自然な暮らしと出会う。帰国後『わら一本の革命』に未来のライフスタイルを感じ取り、愛媛の福岡正信さんの元へ。その後自給自足の暮らしを求めて向かった沖縄で、ご主人の浩二さんと出会った。ふたりで場所を探しはじめてから5年、本島北部の東村高江に、ついに納得のいく場所を見つけた。現在はお子さんの和鼓ちゃんとの3人暮らし。




BOOK
『 沖縄、島ごはん 』
森岡尚子/ネコ・パブリッシング
石垣島で野菜とハーブを育て暮らしていた森岡ファミリー。沖縄〜八重山での数々の出来事と自分が育てた野菜&ハーブのレシピ集。尚子さんが撮ったカラー写真も満載。目に優しく心に美味しい、沖縄の風景と料理の本。雑誌『旅楽』に連載していたものをまとめた尚子さんの処女著作。
CARD
AFRICA POST CARD
ろうけつ染めで作られた絵と写真、アフリカをモチーフにしたこれらのポストカードを目にしたことがある人も多いはず。94年から99年にかけて、全国25カ所で個展が開催された。非木材紙ケナフ製のポストカードは1枚150円。
homepage3.nifty.com/kyo-m/nao/



高江発 -ヤンバルの自然を守りたい!

東村高江の住民に、ヤンバルの森に突然ヘリパッドの建設計画がある、と知らされたのはこの2月のことでした。
1996年に県内への新基地建設を決めた沖縄に関する日米特別行動委員会SACO合意で、沖縄への一部返還が決まった北部演習場。
現在、高江に住む人たちが中心となってヤンバルの自然を守るための活動が行われています。


http://blogs.yahoo.co.jp/okinawa_takae